スタッフ紹介
渡辺 哲史(Satoshi Watanabe)
昭和58年10月10日 愛知県出身
中京大学体育学部 卒
中和医療専門学校 卒
[資格・認定]
アスレティックトレーナー(日本スポーツ協会)
はり師(厚生労働省)
きゅう師(厚生労働省)
あん摩マッサージ指圧師(厚生労働省)
保健体育教員免許(文部科学省)
[所属団体・役職]
沖縄県はりきゅうマッサージ師会 理事
(財)日本ハンドボール協会医事委員会 トレーナー
(財)日本陸上競技連盟トレーナー
[この仕事を始めるまでの生い立ち]
高校時代バスケット部でお世話になっていたアスレティックトレーナーの方々の影響を受け、アスレティックトレーナーを目指す。高校卒業後、中京大学体育学部にてスポーツ科学を学びながら、第一線で活躍するアスレティックトレーナーのアシスタントを勤める。大学卒業後、鍼灸治療の必要性から、中和医療専門学校に進学。
卒業後、結婚を機に13年前沖縄へ移住。
学生時代から現在まで、トレーナー活動に整骨院・リラクゼーション施設・訪問医療など多方面で活動するも、アスリートのサポートと地域に根ざした医療活動の両方を目指して2014年独立を果たす。
[主なトレーナー歴]
名古屋高等学校バスケットボール部 トレーナー
(2002〜2006年)
JBL 三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ アシスタント トレーナー
(2003〜2006年)
2005 SEIKOスーパー陸上ヨコハマ(2005年)
鈴鹿8時間耐久ロードレース TEAM SUZUKI トレーナー(2005年)
陽明高校・那覇西高校女子ハンドボール部 トレーナー(2009〜2013年)
JHL 琉球コラソン アシスタント トレーナー(2009〜2013年)
全国高等学校ハンドボール選抜大会 興南高校・那覇西高校女子ハンドボール部
トレーナー(2012〜2013年)
沖縄県国体少年女子ハンドボール トレーナー
(2012年)
ハンドボール男子日本代表強化合宿 トレーナー
(2013年)
ハンドボール日本代表男子U-16 日韓交流事業(受入) トレーナー
(2016年)
ハンドボール日本代表男子U-16 日韓交流事業(受入) トレーナー
(2017年)
【UpLife治療院が目指している事】
「痛みや苦しみのない一つ上の生活」を提供することをモットーに、一人でも多くの方々の健康に携われることを目指しています。
少しでも皆さんのお力になれるよう、日々進歩する気持ちを忘れず、技術と知識の向上に励んでまいります。
患者様の声をしっかりと聞き、患者様の体と心の辛いところに手の届く治療をするように心がけていきます。
UpLife治療院に関わられた患者様が、治療を受けて笑顔になれる治療院作りを目指していきます。
生い立ち
1983年10月10日愛知県名古屋市生まれ
父親は製薬会社勤務、母親は元銀行員
4歳上の兄に見守られながら小さな病院で出産、温かい家庭で育ちました。
小学校から高校まではバスケットボールに打ち込み、高校生の時に私の人生の歩みを決定する「出逢い」がありました。バスケ部専属で週一度トレーナーの方が来てくれていました。
今でこそ、部活にトレーナーという職業の方が多く見受けられますが、当時は非常に珍しかったかと思います。
当時、捻挫や肉離れなど怪我が多く悩んでいたこともあり、よく相談に乗って頂き、リハビリやテーピングをしてもらい試合に出場していました。
それがきっかけで選手をサポートする「アスレティックトレーナー」という職業があることを知りました。
そして、部活を続けながら自分のプレイヤーとしての状況とチーム状況を考え、自分がプレイヤーでいるよりも裏方で選手をサポートする立場になった方がチームの為になると思い、高校二年の途中からマネージャーになることを決意しました。
マネージャーというチームの役割を通して、毎週トレーナーの方にストレッチやマッサージ、テーピングの巻き方などを教わりました。
そして、高校三年生の最後の大会にて惜しくも準優勝で終わり、全国大会出場という目標は叶わなかったのですが、試合が終わって最後まで戦った同級生や後輩から感謝の気持ちを言葉でもらった時に、選手のために行ったことが、何倍にもなって自分に返ってきたことが忘れられない思い出となっております。
そういった経験から、これほどにやりがいのある仕事が将来の職業になっていたら、こんなに素晴らしいことはないと、この仕事を目指すきっかけとなりました。
高校卒業後は、高校の時にお世話になっていたトレーナーの下で勉強したいという思いが強く、進路は幅広くスポーツ科学の学べる中京大学の体育学部に進学しました。
そして、今でこそあまりないかもしれませんが、丁稚奉公のように師匠と弟子という関係で、学校のない時間帯は師匠のいる治療院で治療見学をさせて頂き、雑用を行いながら、マッサージやテーピングを教わり、また人としてのマナーなどの教育を受けました。
一番は、師匠の話し方から身振り、手先までを全て観察し、「盗む」ことで覚えていくことが大切でした。
平日は、大学が終わり次第治療院にて学び、週末は陸上・バスケ・バレエなどの競技にてトレーナー活動をさせて頂きました。
こういった同じような志の仲間が他にも10名ほどいて、毎晩交代で夕食を作り、皆で同じ釜の飯を食べ、遅くまで勉強させて頂きました。
大学生らしい生活は送れませんでしたが、休みなしの日々からハングリー精神はとても鍛えられたと思います。
また、日本代表など第一線で活躍するアスレティックトレーナーの方のアシスタントをしながら、その姿を間近に拝見できたことは本当に貴重な経験でした。
今の自分の原点となっております。
大学卒業後、鍼灸治療の必要性から中和医療専門学校に進学したタイミングで、情けないながらも、トレーナーという仕事の現実の厳しさについていけず、師匠の元を離れました。
今となれば、何よりも一番に時間が欲しかったのだと思います。若さ所以のものもあったかと思います。
それでも将来チャンスがあればトレーナーとしてまた現場に立ちたいという想いはあったので、専門学校に通いながら、整骨院やリラクゼーション施設などでアルバイトをしながら下積みを積んでおりました。
併せて、飲食や派遣業、新聞配達など他業種のアルバイトも経験しました。
その時は、一旦トレーナーという仕事から離れ、この仕事以外の世界を知ることが出来たのも、今となっては大きな財産かと思います。
人生を違った角度から見れ、広い視点で考えられるようになりました。
そして専門学校卒業後、婚約相手が沖縄出身ということで沖縄に移住することを決意しました。
親元も地元も一度も離れたことのない私が沖縄で生活することができるのか、また、沖縄で将来開業できるのかなどの大きな不安があり、何度も沖縄に赴き、現地の鍼灸院や整骨院を回り沖縄での開業についてお話しを聞かせてもらいました。
また、移住するタイミングで就職先を探していたところ、専門学校の同級生に偶然紹介してもらった先が、長年名古屋でハンドボールの日本代表などのトレーナーとして活躍されていた先生ということもあり、就職をお願いしました。
初めは、あの時間に追われる日々が再び舞い戻るのかという心配もありましたが、どこかで「運命的」なものを感じました。
もう一度頑張れと、「For the Athlete」
選手に尽くせと、天からそう言われている気がしました。
今となっては、こういう巡り合わせというものに本当に自分は恵まれていると思います。
最適な環境で、トレーナーとしてもう一度チャンスが来たと、素直にとても嬉しかったです。
その就職先では、小・中・高の学生を対象としたスポーツ障害についてのトレーニング指導、コンディショ二ング指導などの講師や、中・高・実業団の県内大会・全国大会にて多く帯同させて頂きました。
そしてそのお陰もあって、退職してから男子ハンドボール代表の合宿やU-16ハンドボール日韓戦のトレーナー活動に携わらせて頂いたりと、夢にまで見た日の丸を付けたトレーナー活動も経験できました。
何度も挫折もありましたが、本当に継続してきて良かったと心からそう思えました。
バスケ部時代に高校の恩師の言葉「継続は力なり」という言葉がいつも心に残っています。
【新たな挑戦】
2014年1月20日ついに10年以上前から夢だった鍼灸院の開業を迎えました。
それと同時期に子供に恵まれ、仕事と子育てに忙しい毎日に幸せを日々感じております。
そして、開院して10年目に入り新たな挑戦を決断しました。それは、海外起業と教育移住です
私は二十歳の頃から海外への興味がずっとあり、いつかは海外に住みたいという思いが心の何処かにありました。
キッカケは高校卒業後、丁稚奉公という形で修行していた治療院にて、
毎年海外研修にオーストラリアやアメリカへ連れて行ってもらったことです。
世界はこんなに広く多くの人々がいる、、、毎日が衝撃的でした。
いわゆる人生観を変えられました。
それから他国やアジアを一人旅したりする中でもっと世界を知りたいという思いが強くなりました。
現在、お陰様で30歳から起業しここまで約10年順風満帆できておりましたが、
2020年からのコロナ禍がキッカケで子ども達や日本の将来を深く考えるようになりました。
子ども達の未来のために、せめて語学だけでも幼いうちから身につけて欲しいとういう想いが強くなっていきました。
目指すはマルチリンガル。
今現在、私達の住む場所や環境、周りの方々やお客様にも恵まれて本当に有り難い限りです。
呑み友達もたくさんできました(^_^)
もう一つの想いは、残りの人生を考えた時に、もっとやれる事はないのかという自問自答を日々繰り返しておりました。
やれる事と言うのは、親としてというだけでなく、ひとりの日本人としてどう生きるのか。
世の中に何かを還元したい。
挑戦が人生をより豊かにしてくれると信じております。
海外で自分が通用するのか、食べていけるのか、生きていけるのか、それをゼロから挑戦します。
また、当然葛藤もたくさんありました。
子ども達が元気に学校へ通う姿を見ていると、今の環境を大きく変える事への罪悪感で眠れない夜もありましたが、
もしもこの挑戦が失敗しても、またイチからやり直せばいい、きっとこの経験が何かの糧になると思い決断をしました。
それを実現する第一歩として、私たち家族は今年の4月より海外へ移住します。
大きな目的は、教育移住と私の海外挑戦のためです。
現在、現地の法人設立とビザ申請、子ども達の進学の準備を現地の移住コンサルタントの方々と進めております。
私は、今年40歳になります。
30代に家族が増えて抱いた想いは、40代は世界を飛び回りたい。それも家族みんなで。
妻はずっと僕の不安定な舟に乗ったような状況ですが、強く信じ承諾してくれました。
子どもたちはまだ日本と海外の区別がわからない年齢ですが、語学と多様性を身につけてそれを将来の武器にしてほしいと思います。
20代の挑戦 : 国家資格取得 沖縄移住
30代の挑戦 : 起業 アスレティックトレーナー資格取得
そして、
40代の挑戦 : 海外移住 海外起業 外国語習得
現在2023年春〜夏に海外へ移住する準備をしております。